昭和52年03月10日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 なかなか、ややこしい感じの御理解ですね、実にややこしい。真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞと。自分がおかげを受けたら、それを神心となりて、人に、いわゆる実意丁寧、愛の心を持ってよく伝えて行けと。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて、というところなんか、大変難しいですね。それは金光大神の教えられたことを、だから、まずは自分自身が守らなければ、頂かなければ、出ける事ではない。
 中途半端なことではいけない。神心となりてというのも、まぁそれは、まぁピンから切りまでありましょう。本当に自分がおかげを頂いた、この薬を飲んだら、とてもよく効いた、と。だからそれを、もうこんな有り難い薬のあることは、もう人には教えまいというのではなくて、こんな良い、効く薬があるから、同病の人があったら人にも教えようと。もうこれはすでに、やはり神心である。
 そういう、実は簡単なところから、神心は入って行くわけですけれども、もう切りがないですね神心。最後のまぁそうして人が助かることの御用をさせてもらうということは、そのまま、それが神様へのお礼ということであると同時に、それは神になることでもあると仰る。一人助ければやっぱり、一人の神だと言う様な御教えもあります。本当に貴方のおかげで助かったという時には、やはり一人の神であるが、神になりても、神より上になると思うなと。ところが今度はまた難しい。
 神より上になるということは、どういうことであろうか。神心となりて、人へ伝える、そして人が助かる。確かに、自分が話してあげて、自分がお道布教をしてあげたということになるのですけれども、私がお導きをしてあげたという事が、神より上になることです。あの人は私が導いた。あの人は私の話を聞いて、助かったんだと。もうそこに折角一人助ければ一人の神という事になっておるのにも関わらず、自分でそれをまた、お返しするような結果になる。
 私が導いたんだ、私が話してやって助かったんだと。私が導きの親だと。それが既に今度は神より上になっておる、自分が何が出来るか。神様の働きを頂かなければ出来る事ではないのに、神様のおかげでさせて頂いたと言う所に、私はここの神より上になるなという、今日はここんところを、そういう風に聞いて頂きたい。だから神より上になると言う事は、神様の機感にかなわん、神様の心にかなわん。私は神心神心と言う事はね、仏教で言う慈悲とか、又はキリスト教で言う愛の心とかと言う、そういう慈悲とか愛とかと言う事ではなくてね、怒髪天をつくと言う様な言葉がありましょう。
 怒りが、いわゆる腹を立てると。その髪が逆立って天にまでも届くと、怒髪。心からそれこそ、髪逆立てて腹を立てると言った様な。天地の親神様にも、そう言う様な所があるようですやはり。それは神様を裏切るからです。だから裏切られたからと言うて、腹を立てなさるというの、でもないけれどもね、例えば、与えられておるものを無駄にする、粗末にすると言う様な事も、私は神様の機感にかなわんということは、やはり神様が腹を立てなさるという風に頂いても良いと思うですね。
 取分け例えばね、自殺行為をする人。例えば是なんかはもう、神様がもう可愛いとも、そうですね、気の毒だとも思いなさらんですよ。もう折角与えておる命を、自分で絶つと言った様な事をするから、もう神様、怒髪天をつく様な思いで、もうだからもうそげな御霊は、救いよう助かりようがなか。大体言うならば、愛情の深い慈悲心のならばね、ならそげんとでも助けてやろうというのが、私は神様かと思ったら、そうじゃないです。もうその証拠に、自殺行為なんかをした御霊は、もう本当に助かりにくいです。
 そこんところを、なら金光大神のお取次ぎを頂いて、お取り成しを頂いて、そしてまた助けて頂くという手立てもあるですけれども、神様の方はもうそげな奴は構うな、と言う様な所があるです。頂いておる、もうこよない大切な、その命を自分で絶つ様な事をするからです。だからそれと、例えばなら同じにですね、これはまあ命という、一番まぁぎりぎりの物だから、そういう風にそのいわば、自分で命を絶ったような御霊は助からないと、助けようがないというほどしに、もう神様が、もうそれをとにかく、もう自分の子供とも思いなさらんと言った様な感じのところがあるですね。
 これほど親に心配に心配をかけて、しかも、自分で命を絶つなんて、いよいよもうそげな奴は、もうこの世から抹殺してしまえと。まぁ言うならばね、分かりやすく言うと、そういうような感じのところがあります。その証拠には、それが助からん御霊が。そういう例えば神様が、もうそげな奴は助からん、もうどうなってもええと、こう言われる様な所がありますけれども、そこを今度はまた、金光大神のお取次ぎの働きというのは、そういう素晴らしい働きがあるです。
 もうどうにもこうにも助けようがない。神様にはもう愈々裏切る様な事をした者に対して、断りようお詫びの仕様もない所を、お詫びして下さったりして、また助けて下さるという手立てもね、ありますけれども。そこで私共が思う事は、ならその神様が下さったものを粗末にするからと言う事はね、今度はなら命ほどしの大事なものではなくても、もうすべての事柄、全てのものと言う事にも、同じ事が言えるわけです。
 だから例えば、甘木の初代なんかは、お徳を受けられたんだと思うです。人が言うならばお粗末にした物をお粗末になさらない。神様の御物として、おかげを受けて行かれた。私がおかげを頂くのも、やはり言うならば、皆が粗末にする事柄を、私は御の字をつけて、御事柄として受けるから、私はおかげを頂くんだと。頂いておる命を、自分で粗末にする。自分で命を絶つ様な事をする、神様が怒髪天をつく思いで、もうその氏子の事を、もう見向きもしなさらん。もう親と子の縁の切れ目だと言う様な感じです。
 それは頂いておる命を粗末にする、神様を裏切るような事をするから。けれどもそれを、そんなに大変なことではないに致しましても、神様が人間氏子の幸せのために、幸福のためにと思うて下さる御物やら、御事柄をです、それを粗末にするのですから、やはり神様の、言うなら怒髪天をつくと言う様に怒りはしなさらんけれどもね、やっぱり神様が、言うならば、分かりやすく言うと、腹を立てなさると言う事です。
 だから私共は、もうその都度都度に、お粗末ご無礼と思うたら、心からのお詫びがいると言う事になります。お礼の程度もお詫びの程度も、信心が深まって行けば深まって行くほど、お礼の度合いというものは、深うなってまいります。信心が深うなって行きゃあ行くほどに、神様にお詫びをする様な事はなかろうと思うけれども、それとは反対に、分かれば分かる程、お詫びの度合いというものは、深うなって行くもんです。
 もう二十何年も前から私が言うておることが、例えば、同じような事を言ってますけれども、だからその内容は、段々段々違ってきた。もうどう言う様な事も、場合であってもです、もうそれこそ電信柱の高いのも、郵便ポストの赤いのも、みんな私が悪いのだという頂き方をして、これはもう、二十何年も前から言われておることです、私が言うなら。んなら、今日私がやっぱし同じような事を思っておる。
 言うならば、今日の御理解で言うと、神様を言うならば、腹を立てさせるような、なら信者氏子があると致しますか。頂いておることをお粗末にして、神のおかげとも思わないという氏子が、もうそげな事をしよったら、あれは、お気付けを頂いて、おかげを落とすがのと言った様な考え方ではなくて、結局はなら、私が信心を分からせきっていないのだと。そのおかげを落とした信者が悪いのじゃない、私がおかげを与えきらんのだ、取次ぎきらんのだ。信心を徹底して教えきらんのであるのだと。
 あの人が悪いのじゃない。やはり私の信心不行き届きだと言うて、ならお詫びをする。それは二十何年前も、今日も同じですけれども、その内容は大変違っておる。お詫びの内容が違っておる。お礼を申し上げる内容も、理屈は同じです。金光大神の教えたことを、違わぬように人に伝えて、真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ、と。なかなかもって、金光大神が教えて下さった事を、んならそのままに自分が行じて、それを人に伝えると言った様な事は、なかなか出けない。
 出けないけれども、それが神心となりてと。言うならば、自分が飲んだ薬がよく効いた。吉井から、杉さんのお導きで参って来よった方が、何とかさんと言われた。2~3回参って見てから、もうこんな有り難い神様があるということは知らじゃった、と。帰りがけ杉さんに、もうこんな有り難いことを誰にでも話しますまいやと、言われたという話があります。それは、根性悪いとか、そういうことじゃない。というほどしに、有り難く思うたということでしょう。
 何か大事な物は、ジーッとこう自分でソッとしときたい、そういう心理状態でしょう。もうとってもこげな有り難い神様っちゃ、私は初めて知った。こんな有り難い神様は、あんまり誰にでん教えまいやと言うほどしに有り難い。だからそういうものが、人間の心理状態の中にあるのを超えて、人に伝えずにはおれないというのですから神心です。ですからそこを例えば、金光大神の教えられた事を違わぬようにと、それは違うておっても、その有り難いと思う心で、私は人に伝えて行くと言う事だとこう。
 だからそれを頂いても、人に伝えようもない、伝えないという人は、それこそこげな有り難いことも人には言いまいやというのよりか、もちっとぐらい程度が低いかも知れませんね。神へのお礼と。だから神様へのお礼になるという生き方をさせてもらわなければ、ならないということです、生き方。ところがならそれとは反対に、神にお礼になるどころかね、神様を悲しませる。神様の方に腹を立てさせるような生き方を、神へのお礼どころではない訳です。
 だからそれでは、おかげが受けられんということを、まず皆さんが知らなきゃいけません。神へのお礼ぞ、神へのお礼ぞと、神へのお礼は出けておるようであるけれども、なら、出けとるとは、またそれとは反対に、神様が腹を立てなさるような、お礼どころか、反対のことになるような生き方をしてはいないか。言うならば、神様に頂いておる大事なものを自分で絶ったり、自分で粗末にしておるようなことはないか。
 ということは、いかにお礼のような感じが、お礼の信心が出けとるとか、お礼のならお導きが出けておるとかと言うても、それはまた反対にマイナスになって行くわけであります。だからいよいよ、プラスからプラスに、いよいよおかげからおかげを頂いて行くということのためには、もうお礼お礼の生き方。一切を御の字をつける、一切を御物として頂くという生き方を土台にして、神へのお礼の信心が出ける。そして自分のおかげを頂いたことを、人に、実意丁寧、愛の心を持って、人に伝えていく。
 そこに一人助ければ一人の神と言う事になるのですから、その二人助ければ二人の神になる事を楽しみに、信心して行かなければならんのですけれども、最後に神より上になっておると言う様な事で、また逆戻りということになる。それは、神様のおかげで、導きも出けた。又は、導いた人が助かってもおるのにも関わらず、自分が導いた、自分が助けてやったと言う様な思いがある事になると、また反対の事になる。
 だから信心というのは、実に微に入り細にわたって、お粗末ご無礼がないようにという生き方を身につけるということが、それが正しい言うなら、真の道でありますから、その真の道を歩かせて頂くことが、いよいよ身についてしもうて、丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行くのぞと仰る。実意丁寧に言うならば、話をして行くだけではない、実意丁寧なその生き方の中に、真の道を踏んで行く。
 その真の道を踏んで行くと言う事が、こんなに有り難いもんだ、こんなに楽しいものだ、こんなに愉快なものだと言う様な、ひとつおかげを身につけて行かなければならない。それをなら、合楽理念を持ってする事によってです、その辺の所がね、おかげが頂いて行けるという風に思います。今日は神心と言う事は、もうピンから切りまであるんだと。そしてそれはもうそれこそ、何か助けずにはおかんという愛情とか慈悲心とかね、
 というものが、中にいっぱいこもっておる事とばかり思うておったけども、神心の中には、それこそ怒髪天をつかれんばかりに、腹を立てられる。その可愛い氏子と言うておられたのでも、もしその氏子が自分で自分の命を絶つような事をしたら、もう、そげな奴は、俺が子じゃなか。親にこげな心配かけてから、と言う様なもんです。もうそれきりで跳ねのかされるほどしの、なら心も、天地の親神様は持っておられるんだと。
 まぁ今日のところ、そこ辺のところをね、どうぞ頂き違わんようにして下さい。なら神様は、そういう根性悪なところもあるかというとは、違うんです。おかげが頂ける、頂けない。お徳が受けられる、受けられないその境のところがです、神様に頂いたものを粗末にする、しないということで、ならおかげが受けられる、お徳が受けられるの、言うならば、瀬戸際にあるところですから。
 それをなら、真の実意丁寧に話をして行くのが、真の道を踏んで行く。真の道を踏んで行くということ。そこから、真のおかげの道も、また、もちろん開けてくる。お徳を頂いていくことも出けてくる。信心とはそこを教えるのですから。時々おかげを頂いて、他はわがよかごとしてよかぞというのが、言うなら信心じゃないのだから、金光様の御信心は。だからいよいよ、真の道をわからせてもらい、真の人を目指し、真のおかげを頂いて行くというところに、神様の願いがあるのだから。
 そこから一歩でも、言うならば外れてはならない。そんなら大変難しいことだ、というのではなくて。その一歩でも間違えたら、前には進まれないと言う位な生き方を身につける。この六十一節はそういう、まぁ大変なことを、大変ややこしいご理解だけど、私が今日、皆さんに聞いて頂いた所も、今日は大変ややこしく、いわばもうわざわざ、ややこしゅうして聞いて頂いたような感じですけれども、そこから何かね、皆さんの心に止まって、おかげを頂いて行かれたら有り難いです。いよいよ真の道を踏んで行く生き方を身につけたいですね。
   どうぞ。